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「あしながおじさん」

“あしながおじさん”は私の大好きな人です。好きな人というよりも、感謝しているといった方がいいかもしれません。
  私にとっての“あしながおじさん”は骨髄液提供ドナーのことを言います。“名前も顔も知らない人から命をもらった”ということで、このような名前で呼んでいます。
  私があしながおじさんを知ることとなったきっかけは、今から10年以上前に遡ります。私は4歳の時に白血病という病気になりました。白血病とは簡単に言うと血液のガンです。その白血病を治すため、何年も化学療法を続け、8歳の頃に一時的に治りました。ところが翌年の冬に再発。何ヶ月かの治療の後、私は骨髄移植をすることになりました。
  骨髄移植とは、患者さんの骨髄の中を一端空っぽにした後、新しい骨髄液を移植することです。私は初め骨髄移植というのが何の事なのかを、自分でもよく分かっていませんでした。ただその骨髄移植というのをすれば病気が治るのだとしか思っていましたが、骨髄移植をするということが、たくさんの人達のおかげでできるということを元気になった後で知りました。
私は骨髄移植をするため、大学病院から九州の病院へ転院しました。転院した病院には、私と同じ病気の子どもたちがたくさんいました。ある日、私が骨髄移植をするために入院してきた事を知ったある友達が、「いいなぁ。俺なんかまだぜんぜん見つからんのに…」と、うらやましそうに言っていました。この人だけではありません。この他にも、何人もの友達がドナーを待っていました。
ドナーというのは、骨髄液を提供してくれる人のことです。骨髄にはHLAという複雑な型があります。患者とドナーの骨髄の型が合わないと移植をすることはできません。私はそんなに珍しい型ではなかったので、すぐにドナーが見つかりました。まだドナーが見つかっていない友達には申し訳ない気持ちでいっぱいでしたが、移植の準備は着々と進んでいきました。無菌室や身の回りの物の消毒はもちろんの事、自分の身体の中の消毒、放射線、服薬や吸入もしていきました。
一人で無菌室に入り、強烈な吐き気のある中での独りぼっちの生活は本当に心細く、辛く、苦しかったです。食事もできず、毎日寝たきりの生活でした。そんな中で移植を受ける日がやってきました。
この日は珍しく体調も良くて、家族に向かってピースサインが出るほどでした。ドナーから届いた骨髄液は私の体の中に一滴一滴入っていきました。骨髄液の輸血パックはピンク色をしていて、体の中はとても温かくなっていきました。
朝の9時から始まった移植はよるの10時過ぎまでかかり、無事終わりました。私は移植が無事済んだこと、骨髄液を提供してくれてありがとうという感謝の気持ちを、骨髄バンクを通じて手紙を書きました。すると、何週間か後になんとあしながおじさんから返事の手紙が届きました。手紙には「わたしはあなたがげんきになることがなによりうれしいです。ほんとうはあしのみじかいおとこですが、どこかでいつもあなたをおうえんしています」と書いてありました。私はこの手紙をいつもお守りのように大切にしています。私の好きな人はあしながおじさんです。
  私は、あしながおじさんにもらった新しい命を、自分なりに一生懸命生きようと思います。

平成9年9月

絵美